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東大生ホイホイ

入試の話は東大生ホイホイです。
特に東大入試に関わるセンター試験や国立大学の二次試験における変更、学習指導要領の改訂なんかは東大生が三人寄れば議論になります(笑)

先日、東大入試に推薦枠をつくろうという話が出たときには、生協食堂へ行けばあちらこちらで話題に上っていました。そして今度も、2次の学力試験廃止 人物評価重視にという報道に触れて、キャンパスのあちこちであれやこれやと議論が交わされていました。基本的にはネガティブな評価でした。

私の捉え方に近い意見が書かれたblogを見つけました。
観測気球かな?→ 国公立大入試:2次の学力試験廃止

聞かれた意見を簡単にまとめておきます。

1. 大学での教育を受けるのに必要な学力を保証すべき
大学に入ったあと、しっかり学問に取り組むには一定レベルの学力(知識と思考力)が必要となります。工学部で学ぶ内容でいえば、何かを作るためには、機械にしろソフトウェアにしろ建築物にしろ化学物質にしろ、物理学の基本的な方程式を使えなければ高度なことはできません。その方程式を運用できるようになるには、ある程度(高校で勉強する内容プラスアルファ)の数学を理解している必要があります。したがって、大学で学ぶべき内容に取り組む前に、高校で学ぶべききことは学び終えている必要があります。他の学部であっても、高校で習う国社数理英くらい抑えていないと、スタートラインに立てません。いかに「人物」が優れていたとしても、充分な学力を持たない人間が大学に行ってできることはありません。
現在でも、あちらこちらの大学で高校の補修のような内容の授業が展開されています。東京大学の前記教養課程でも、第二外国語や電磁気学、数学などの講義では大学入学までに既習であるか初習であるかでレベル別のコースを用意しています。実際に世の中の役に立つような学問の最先端は、小中高の教科書の「お勉強」と独立してあるのではなく、それら「お勉強」を積み上げた先に成立するものだということを忘れてはならないでしょう。

一方で、中高の教育カリキュラムが時代の変化に対応できているかというと、疑問が残ります。20世紀のためのカリキュラムを「知識偏重」と呼ぶのであれば、21世紀のカリキュラムはどんなものになるのでしょうか。そのあり方は「人物重視」だけではないでしょう。

2. 試験の客観性・公平性を担保できない
「人物」なるものを厳密に評価する方法は存在するのでしょうか。
試験官ごとに評価基準が異なることが容易に想像できます。試験官の個人的な判断を介入させることはずいぶんと簡単になることでしょう。評価基準もある程度はすり合わせられますが、どこまで統一すれば「公平」な選抜ができるのでしょうか。言うは易しですが、人物評価なるものによる試験制度を設計することは並大抵の仕事ではありません。(就活の憂鬱と同じ問題)
また、優れた知性や思考力、芸術的な才能など、何かしらの才能を持っていたとしても、もしそれが面接などで伝わりにくいものであれば、「正当な評価」を得られないのではないでしょうか。現在、ペーパーテストの対策のために巨大な受験産業が成立しているのですから、面接や論文試験なども受験産業が「正解」を売ってくれるようになるのは時間の問題です。かの慶応SFCのAO試験対策だって、用意されているのが現実です。

もちろん、十分な時間と資金、人材を投入すれば人物評価による選抜は実現可能です。これは各大学の求める性質を持た学生を集め、大学の個性を確立するのに大きく貢献するでしょう。みんな大好きハーバード大学の入試はエッセイやインタビューからなります。
また、あるべき人物像が何かしら提示されることは、混沌とした現代社会にあって、ひとつの道標となるかもしれません。

3. 人物評価という人格の否定
相対的に高い評価を受ける人間がいれば、同じく相対的に低い評価をうける人間が存在します。では、「人物評価」によって選抜を外れた人や劣位に評価された人は、人間として劣っているのでしょうか。
学力が相対的に高くなくても、スポーツで優れている、芸術的な技能がある、おもいやりがあるなど「人間」が優れているなんてことは普通にあることでしょう。むしろ学力がと人物の良し悪しはほとんど独立に考えられるもののはずです。
それが「人物」評価によって序列が付けられるとしたら(序列付と選抜は不可分です)、下位半分に位置づけられる人々に対して「人物」が劣っていると宣告することになるわけです。「人物」評価は、悪い評価を受ける半数の人々への配慮に欠けた不健康は評価方法ということができます。

ただ、このようなドラスティックな制度変更が全ての大学に対して強制されることは考えにくいことから、様々な選抜方法を併用することで、受験者それぞれの良いところを汲み取る試験にすることができるしょう。これまでさんざん「お勉強」しかできない頭でっかちの弊害が指摘されてきたのですから、それを回避する方策のひとつとして考えておくべきことでもあるでしょう。

4. 知識偏重を回避するのはペーパーテストでも可能
「人物」を評価する、そのために面接試験を行おうという流れが見えます。
しかし、現在の大学入試が知識偏重であり修正が必要だとしても、論述式にするなどして「考える力」や「応用力」を測ることは可能です。例としては、すでにPISA型学力なるものがOECD諸国で重要視されるようになっています。これは単に知識を習得しているのではなく、それを実生活において活用する力を測ることができるとされています。「人物」なる定義もわからない代物に飛ばなくても、現行の制度・形式のまま時代や社会の要請の変化に対応することは十分可能でしょう。

2や3で述べたように、「人物」評価が必ずしも筆記試験を否定するものではないので、この批判は当たらないかもしれません。

5. そもそも上位国立大学(要は東大)の入試問題は知識偏重ではない
東大生に人気の意見です(笑)
東京大学の入試問題を解いたことがある方ならわかると思いますが、少なくとも理系の問題では検定教科書より高度な知識を要求することは稀です。むしろ、高校まで習う事柄をベースにして「応用力」や「思考力」を問うものが多い印象を私は持っています。個人的に受験勉強をしていて最も感動した問題は、東大理科2006年度前期物理の第一問でした。なんと高校物理の内容で太陽系外惑星を発見する計算を追うことができます。「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」など、受験生に対するメッセージ性の高い問題が多いのが東大入試の特徴といえるでしょう。
翻って早稲田や慶応などの私大の試験やセンター試験なんかは小難しくて複雑な計算を間違えずに大量にこなすことが求められて、東大入試よりはるかに「知識偏重」型の問題が使われています。下位の大学ではセンター試験を簡単にしたような問題が出されていることはあっても、東大やその他旧帝大クラスの入試で出てくるような考えさせる解いていてワクワクするような問題が出されることはあまりりません。
世間からは「知識偏重」の最先端と目されているであろう東大入試が、実はかなり「知識偏重」から離れたもので、むしろ「応用力」や「思考力」を重視しているものであることは、ぜひ多くの方々に知っていただきたいことです。ちなみに東大入試の数学理科社会の解答用紙はほとんど白紙で、穴埋めよりは論述式です。

思考の基礎となる知識が無いことには始まらないのも事実ですが。

6. 教育内容が問題なのに選抜の形だけ変えても無意味
教育制度を改革するのは、何かしらの望ましい性質を備えた人材を社会に供給することが目的のはずです。
まさか教育制度を改革するといって選抜方法だけ変更しておしまいということはないでしょう。
すると、どんな人材を輩出すべきか、どうしたらそういう人材を育成できるのかが先に議論されるはずです。その上で、新しい教育の形を実現する上で必要な施策として入試制度改革がやってくるのが順番でしょう。
そもそも、現在の入試制度のもとでは実現が難しい教育で社会から求められるものがあるならば、国立大学の入試制度から自由な私大がやればいいのではないでしょうか。慶応SFCなんかはそれで成功しているわけですが、SFCの劣化コピーを全国につくっても意味がありません。制度をいじらなくても推薦なりAOなりが現在あることを考えると、大学や高校の教育の中身を決めずに、入試の制度を変えたところで、何が良くなるのでしょうか。

そうはいっても受験生は現金なので、入試に使わない科目は勉強しないなんてこともよくある話です。大学に入る前に絶対に身に付けておいてほしい能力があれば、それを入試に課すことが受験生に対して最も手っ取り早い方法として利用できます。

7. 親の経済力の影響が大きくなり、社会全体の格差固定化につながる
「人物」を評価するのに課外活動が大きな割合を占めることが、近年の就活や推薦入試の様子を見ていると予想できます。
部活動、芸術活動、社会貢献、ボランティア、突飛な体験。他人と比べて優れているといえるような体験は、ただ学校に通っているだけでは得られません。だからこそ意欲を測る上で使えると考えられます。ある程度家庭に余裕があれば、課外活動にかかる経費を負担したり、取り組む時間を確保することができるでしょうが、もし余裕のない家庭であったらどうでしょう。家事の手伝いや、場合によっては高校生でもアルバイトをして生活費を稼がないといけないかもしれません。学校以外の世界を知らない子どもにとっては、親なり周囲の大人が行動しなければ、いつもとは別の世界に触れる機会すら得られません。
すなわち、豊かな経験に裏打ちされた「人間力」あふれる受験生を育てられるのは、簡単にいえば裕福な家庭です。経済的に恵まれない環境にあっても、本人が学校で勉強さえ頑張って学力を鍛えれば大学入試で一発逆転ができるというのは、現在のシステムの良いところのひとつです。

そうはいうものの、現在の学力のみに依る選抜でさえ、大学が格差の再生産装置として働いている面も否定できません。東大生の家庭の平均年収が約1000万円であることや、親の所得額によって進学率に大きな差があることも明らかになっています。もし学校教育システム全体で格差の再生産を防ごうというのならば、入試制度以外にも奨学金など変えるべきことがたくさんあります。「人物」評価によって苦学生をすくい上げることが用意になるとも考えられます。


さて、長々と書いてしましたが、いったいぜんたいこの国の教育制度はどうなっていくのでしょうか。
今後も注視していきたいと思います。

(追記2013年10月15日)
もっと考えたい方へ。
経済産業研究所大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価-
本田由紀多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで
苅谷剛彦学力と階層 (朝日文庫)
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4件のコメント

[C666] 春華

自分の考えと似ていて思わずうなずいてしまいました。

面接なんかで人物を判定するってのはまず無理ですよね。
つくろうのは簡単ですから。

入学する上で必要最低限の基礎学力は大事だというのに。
大学はあくまで「学ぶ場所」であって「就職予備校」ではないですから。

東大はそういう意味では昔から知識偏重に警笛を鳴らしてましたよね。
面白い問題が多いと思います。
そこが一番である理由でもあるのかなと思います。

[C667] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

[C668] とても面白いブログだと思います

古今東西、どの国においても、最高学府はなにかと話題になりやすく、その話題も、その最高学府に対して否定的なものから肯定的なものまで、ブレも激しいものです。

若い時にいろいろな議論を戦わせるのはいいことだと思います。突飛と思われるような意見でも、どんどん出ていい、というのがぼくの勝手な考えです。変人かもしれないぼくは、どの意見に対しても興味と関心をもって聞き入ってしまいます。

東大にしても京大にしても、そしてほかの大学にしても、その能力が十分に発揮されているとは思いません。大学において、もっと自治と自由が実現するとイイのかな、と思っています。

ぼくはもう年も40をはるかに過ぎていますが、自分が若かったころを意識し、若い人に上から目線でものを言わないように心掛けています。

大人は常に自分たちの若かりし頃を忘れがちです。若い人たちの潜在的能力をもっと引き出す企業文化はまだまだ一般的とはいえません。

皆さんの若さをとてもうらやましく思います。

ではまた来ます。

[C676] Re: とても面白いブログだと思います

中井様

東大生をやっていると、いろいろと勝手を言われることに慣れますね(笑)
私もまともな先輩になれるよう精進していきたいと思います。変な歳の取り方はしないように気を付けます。
  • 2014-03-28
  • othmer
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othmer

Author:othmer
下流社会から東大を目指した。
東京大学工学部卒業。
同大学院工学系研究科。

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